大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成8年(特わ)2933号 判決

主文

被告人を懲役六か月に処する。

この裁判確定の日から三年間この刑の執行を猶予する。

被告人から金二六二一万六二九五円を追徴する。

理由

(本件犯行の背景的事実)

一  いわゆるM&A(企業合併・買収)交渉における当事者会社等

日本織物加工株式会社は、滋賀県甲賀郡甲西町小砂町〈番地略〉に本店を置き、原糸、織物その他の繊維品の染色、加工等を目的とし、その発行する株券が大阪証券取引所第二部及び京都証券取引所に上場されている会社であるが、後記の第三者割当増資等が、実施される以前は、繊維品の染色加工を主な業務とする東海染工株式会社及び各種繊維工業品、化学工業品等の製造、加工、販売を目的とするユニチカ株式会社が、その発行済み株式総数の過半数を保有していた。東海染工、ユニチカ間の契約(昭和五五年二月一日付け改訂基本契約書、昭和五七年九月二七日付け改訂基本契約書変更同意書等)では、日本織物加工株の保有割合及び同社の役員構成を、東海染工が二、ユニチカが一とし、東海染工が日本織物加工の経営の執行責任を負い、ユニチカは主として営業面において東海染工に協力することが定められていた。

刈谷敏は、平成四年六月、右改訂基本契約書等に基づき、日本織物加工の経営再建を目的として、東海染工から派遣されて代表取締役社長に就任した。

二  第一次M&A交渉の開始と終了及び被告人の関与

1  第一次M&A交渉の開始と本件秘密保持契約の締結

日本織物加工の経営が悪化したことから、東海染工は、平成五年三月ころ、会社の合併及び業務提携の斡旋等を目的とする株式会社レコフに対し、日本織物加工のM&Aの仲介、斡旋を依頼し(依頼書締結は、同年三月一日付け)、レコフは、右依頼に基づいて、平成六年三月ころ、東海染工側にM&Aの相手として、消費者金融を中心としてベンディング事業やレンタル事業も手がけている株式会社ユニマットを紹介した。その結果、M&A交渉が開始され(以下「第一次M&A交渉」という。)、同月一五日には、ユニマット、東海染工、日本織物加工を契約当事者とし、同日から起算して三年間を有効期間とする秘密保持契約が締結された。

2  被告人の関与

被告人は、ユニマットの監査役及び顧問弁護士をしていて、M&Aの専門家としても名を馳せていたが、本件秘密保持契約書をユニマットの代表取締役社長の高橋洋二から事前に見せられてその内容を確認したりしていたところ、平成六年五月一〇日ころには高橋社長から、具体的交渉や事務手続を含む本件M&A交渉の一切を委任された。そこで、被告人は、同月一八日ころ、本件M&Aについての高橋社長の基本姿勢を基に、〈1〉日本織物加工がユニマット等に対し一株一六〇円で一一六一万株の第三者割当増資を行う、〈2〉東海染工保有の三一一万七〇〇〇株、ユニチカ保有の一五五万一〇〇〇株、ユニチカサービス(ユニチカの子会社)保有の四八万七〇〇〇株合計五一五万五〇〇〇株の日本織物加工株を第三者割当増資後二年六か月以内にユニマットに一株一六五円で売却する、〈3〉契約締結後東海染工は八〇万株、ユニチカは四〇万株の日本織物加工株を五年間継続保有し、その後一年間ユニマットに一株二五〇円で買い取らせる権利を有するという趣旨のM&Aの枠組みの案(以下「本件スキーム案」という。)を作成した。

3  刈谷社長の対応と第一次M&A交渉の終了

刈谷社長は、平成六年五月一二日、日本織物加工の取締役会で、第三者割当増資に備えて同社の授権資本を二〇〇〇万株から倍の四〇〇〇万株に定款変更することを提案した。しかし、第三者割当増資自体については触れず、また、増資等についての詳細な説明はできないが承認していただきたい旨を告げて、承認を得、同年六月二八日開催の株主総会でも承認決議を得た。

同年五月二〇日ころ、ユニマット側から、本件スキーム案が東海染工側に提示されたが、ユニチカが、保有株をそれまで同社と取引のなかったユニマットに直接譲渡すること等に難色を示したことから、交渉が長引き、その間に日本織物加工の株価が上がるなどしたため、同年九月には、ユニマット側から東海染工側に本件交渉を白紙撤回することが伝えられて、第一次M&A交渉は終了した。

三  第二次M&A交渉の開始と妥結及び被告人の関与

1  右交渉の開始と被告人の関与

平成六年一二月ころ、レコフが仲介して、本件スキーム案と同じ条件で前記M&A交渉が再開され(以下「第二次M&A交渉」という。)、被告人は、同月一九日ころ、高橋社長から、右交渉再開の意思を伝えられるとともに、再度その交渉を一任された。

ユニチカは、東海染工に対し、同社に協力するが、ユニチカ保有株の譲渡は、その半分を限度とし、ユニマットとの直接取引には応じないことなどの条件を示し、右条件は、レコフを通じてユニマット側にも伝えられた。

そこで、事態打開のため、平成七年一月二五日には、ユニマットの高橋社長と東海染工の代表取締役会長八代健三郎とのトップ会談が被告人も同席して行われた。その後、被告人は、レコフの取締役副社長今野良壽らとも協議した上、ユニチカ側の意向も考慮して、同月三〇日、ユニマット側の条件として、第三者割当増資の株数を一九万株増やして一一八〇万株とし、ユニチカ保有株合計二〇三万八〇〇〇株のほぼ半分の一〇七万三〇〇〇株をユニマットへの譲渡株とすること、残存株の五年間のユニチカ側の保有は必要であることなどを案出し、レコフを介して翌三一日に、東海染工側に伝えた。また、ユニマットは、レコフに対して、ユニチカ保有株の直接譲受にこだわらない旨を伝えた。しかし、レコフは、ユニチカからユニマットへの直接譲渡でないと問題が多く、円滑な株式移転は難しいとの見通しを持っていたため、東海染工に対して、ユニチカが東海染工を介する形でのユニマットへの株券の迂回譲渡には問題があるから、ユニチカは直接譲渡に応じてほしい旨を伝えた。

同年二月七日、東海染工は、ユニチカに対して、レコフの右意向も含めたユニマット側の前記条件を伝えた。翌八日、ユニチカは、これまでの方針を変更して、保有株の直接譲渡に応じるが、残存株の保有義務は二年六か月が限度である旨を東海染工側に伝えた。翌九日、レコフを介して、その旨が被告人に伝えられた。被告人は、レコフに対し、ユニチカの残存株の五年間保有の条件を削ってもかまわない旨述べ、これまでに確認された基本骨子の確認書の案をユニマットで作成することになった。

2  第二次M&A交渉の妥結

同月一四日、八代会長とユニチカの代表取締役社長田口圭太のトップ会談が行われ、ユニマットが作成した確認書の案を田口社長も了解し、同日、東海染工の本社において、刈谷社長も、同社の湯浅正雄取締役から、ユニチカの最終合意が得られた旨を聞き、確認書の案も見るに至った。そして、同月一七日、ユニマット、東海染工、ユニチカの三者が確認書に正式に調印するとともに、同月二三日に、関係する証券会社、証券取引所、財務局等に事前の説明、相談をした。

同年三月三日、前記三者間で本件M&Aについての合意書及び覚書が締結されるとともに、日本織物加工の取締役会では、刈谷社長が議長として第三者割当増資の議題を提出して説明し、承認決議を得た。また、同日、記者に発表されるなどして、第三者割当増資を含む本件M&Aが公表された。

(犯罪事実)

被告人は、前記のとおり、株券の上場を行うなどしている日本織物加工との間で、資本を含む業務提携等の可能性を検討するに当たって、本件秘密保持契約を締結していたユニマットの監査役兼代理人として第二次M&A交渉に携わっていた者であるが、平成七年一月一三日に、同契約の履行に関し、第二次M&A交渉の仲介をしていたレコフの今野副社長から「日本織物加工はもちろんですが、ユニチカも第三者割当には同意していますので、今後のスケジュールを組みたいのですが」と聞いたことなどから、本件秘密保持契約の履行に関し、日本織物加工の業務執行を決定する機関である刈谷社長は、日本織物加工株のユニマットへの直接譲渡等に難色を示すユニチカの問題に決着がつけば、ユニマット及びその関連会社に対し、第三者割当増資を実施するために新株の発行を行うとの決定をしたことを知り(なお、発行株式数等は、右決定時は発行株式数が一一六一万株、発行価額が総額一八億五七六〇万円と予定されていたが、その後前記のとおり、発行株式数が一一八〇万株、発行価額が総額一八億八八〇〇万円に変更された。)、さらに、同年二月九日ころ、今野副社長から、そのころ、ユニチカが直接取引に応じることになった旨を聞いて右決定中の障害事由がなくなったことを知った。このようにして、被告人は、本件秘密保持契約の履行に関し、日本織物加工の業務等に関する重要事実である、日本織物加工の業務執行を決定する機関である刈谷社長が第三者割当増資を実施するために新株発行を行うとの決定をしたことを知った。

そして、被告人は、法定の除外事由がないのに、右重要事実の公表前である同月一六日から同月二七日までの間、別紙犯罪事実一覧表記載のとおり、東京都中央区日本橋人形町二丁目一番二号岡地証券株式会社水天宮支店を介し、大阪市中央区北浜一丁目八番一六号大阪証券取引所において、知人の林美恵の名義を使用し、日本織物加工の合計一一万三〇〇〇株を価額合計一八二八万九〇〇〇円で買い付けて、日本織物加工の業務等に関する重要事実の公表前に同会社の株券の売買をした。

(証拠)〈省略〉

(争点に対する判断)

一  弁護人及び被告人は、最終的に、公訴事実の外形的部分は争わないものの、被告人の行為は、本件の構成要件に該当するものではなく、無罪である旨主張するに至っている。

しかし、当裁判所は、前記のとおりの犯罪事実を認定したので、以下その理由を重要性に応じた順序で説明する。

二  証券取引法一六六条二項にいう「上場会社の業務執行を決定する機関が新株の発行を行うことについての決定をしたこと」の有無について

検察官は、本件における重要事実とは、刈谷社長が、平成七年一月一一日に本件M&Aが妥結するとの見通しを強め、ユニチカが、同社の保有株をユニマットに直接譲渡することに難色を示していたという第二次M&A交渉の唯一の障壁が解消することを停止条件として、第三者割当増資を実質的に決定したこと及び同年二月九日に右ユニチカの保有株の譲渡方法をめぐる問題が解消して、刈谷社長が第三者割当増資を実施するために同社の株式の発行を行うことについての決定をしたことであるとするのに対し、弁護人及び被告人は、刈谷社長は、本件M&A交渉には関与しておらず、ユニチカが直接譲渡に同意した事実も同月一四日まで知らされていなかったことなどから、刈谷社長が本件新株発行についての決定をしたというには合理的な疑いがあるなどと主張する。

そこで、少し個別に説明する。

1  前記機関、決定の意義について

(一) 検察官は、刈谷社長は、平成六年五月一二日開催の日本織物加工の取締役会において、第三者割当増資を行う一切の事項を委任されたから、証券取引法一六六条二項一号柱書にいう「業務執行を決定する機関」(以下右機関を「「機関」」と、右柱書及びイにいう「株式の発行を行うことについての決定を「「決定」」ということがある。)に該当する旨主張し、弁護人は、刈谷社長に対する取締役会の委任はなく、刈谷社長には、本件第三者割当増資による新株発行に関する決定権限が法律上も事実上もないから、「機関」に該当しない旨主張する。

(二) 本件に即して「機関」と「決定」の意義について検討すると、商法二八〇条の二第一項本文によれば、本件のような新株発行は取締役会が決定することとされているから、日本織物加工の取締役会が「機関」に、右の趣旨の決定が「決定」にそれぞれ該当することはいうまでもない。

しかし、証券取引法は投資者の保護に資するための有価証券の発行及び売買その他の取引を公正ならしめることなどを目的としており、また、同法一六六条二項柱書は、同項一、二号について、投資者の投資判断に及ぼす影響が軽微な一定のものを除外しているから、右の程度を越えて投資者の投資判断に影響を及ぼす事実が同項一、二号の規制対象となっていることが明らかである。そして、同項一号は、右のような意味で投資者の投資判断に影響を及ぼす事実のうち、会社の意思決定にかかる事実をその規制の対象としていると解されることに照らすと、「機関」「決定」が前記のようなものに限定されるとすると、例えば、本件でも日本織物加工の取締役会で第三者割当増資の決定がなされたのは本件M&Aが公表された当日であるように、その立法目的を十分に達成できないことは明白であって、右立法目的を考慮して、刑罰法規の解釈として許される範囲内で、より実質的にその意義を捉らえるのが相当である。

そして、「決定」の内容如何が「機関」の意義の判断に関係しているので、まず、「決定」についていえば、前記二項一号柱書前段には、規制対象が新株発行を「行うことの決定」ではなく「行うことについての決定」と規定されているから、「決定」は、新株発行を行うことの決定だけには限定されないのであって(なお、右柱書後段には「行わないことを決定したこと」と規定されているが、この決定にも、前記立法目的に照らすと、実質的考慮の必要なことが窺われ、このような実質的検討の要否は右立法目的に照らして判断する必要があり、「行うことの決定」か「行うことについての決定」かといった文言だけが決定的意義を有するとまでは解されないが、重要な手がかりであることはいうまでもない。)、それ以前の段階の会社の意思決定であっても、例えば、最終的には取締役会での新株発行の決定がされることを前提に、一定の障害事由がなくなれば新株発行を行う旨の事前の決定は、その障害事由がなくなったときに、新株発行を行う時期、内容等が具体的、明確なものとなっているものである限り、投資者の投資判断に影響を及ぼす事実に該当することは明らかであるから、前記立法目的に照らせば、このような決定も、右のような障害事由がなくなった時点で、規制対象とすることに合理性がある。そして、右の「決定」には、法律上の決定とまではいえない、その意味で事実上の決定も含まれるのは事柄の性質上当然であり、また、右の決定は、故意の対象ともなるから、何らかの形で外部に表明されて他人の認識の対象となり得ることは必要であるが、それ以上の決定方式の要式性は要求されないと解される。したがって、取締役会といった複数人によって意思が決められる場合は、その意思が決められたときに「決定」がなされたということができる。しかし、個人が意思を決める場合は、内心の生の事実としては決断といった形のときもあるが、前記のように決定として認識の対象となり得るためには何らかの形でその決められた意思が外部に表明されることを要するから、右の段階に至ったときに「決定」があったとすべきである。このようなことは、個人が会社の機関として決定権限を有する場合、例えば、個人として会社の業務執行権を持ち、業務執行に関する一定の範囲内の決定権限を認められている代表取締役が右の決定をするときなどには不可避的に生じる事態であるから、「決定」に右のような決定も含まれると解したとしても、そのことが構成要件の定型性、明確性を害することにはならないといえる。

次に「機関」については、「当該上場会社等の業務執行を決定する機関」とされているが、この「機関」も実質的に検討することが必要となることはこれまで述べてきたところから明らかであって、「機関」は、結局のところ、前記会社等の機関であって、「決定」を行えるものであれば足りると解される。したがって、前記のような、最終的には取締役会での新株発行の決定がされることを前提に、一定の障害事由がなくなれば新株発行を行う旨の事前の決定といったものは、取締役会だけでなく、取締役会から決議ないしこれに準じた形で右の決定権限を付与された(商法二〇八条の二第一項本文もこのような権限の付与まで禁じたものではないと解される。)会社の機関でも行えるから、右の機関も「機関」に含まれると解される。

以上に反する弁護人らの主張は採用できない。

2  刈谷社長の「機関」該当性について

(一) 刈谷社長は、日本織物加工の機関である代表取締役社長であり、刈谷社長、湯浅取締役、日本織物加工の大久保孝取締役らの供述等によれば、刈谷社長は、日本織物加工の経営の再建を図るために東海染工から派遣され、親会社の東海染工及びユニチカの意向に反しない範囲内において、全権を与えられていたこと(甲二三)、他の取締役も全て、前記改訂基本契約書等に基づき、親会社である東海染工及びユニチカから派遣されていたが、刈谷社長は、日本織物加工の経営に関する事項について、それらの取締役からも全面的な委任を受けていたこと(甲二三、二六から二八まで等)、刈谷社長は、日本織物加工の重要な経営判断については、東海染工の取締役らに事前に相談をし、その了解を得た上で行っており(甲二三、二九、三〇)、他の役員らが、事前に親会社の了承を得た上で行った刈谷社長の決定に反対することはなく、取締役会は、刈谷社長が決定した事項を追認するだけの形式的なものであったこと(甲二九、三〇等)の各事実が認められる。

右事実によれば、刈谷社長は、親会社の了解を得れば、改めて取締役会においてその点に関する権限を付与する旨の決議を受けるまでもなく、日本織物加工の経営全般、例えば第三者割当増資を実施するための新株発行といった取締役会が最終的には決定するような重要な事項も含めて、事前の実質的な決定を行う権限を各取締役から与えられていたと認められる。そして、このことは、前記のとおり平成六年五月一二日に開催された取締役会において、刈谷社長から、増資について、詳細はこの場では述べられないという説明がされたのに対し、特段の異議もなく、授権株式の拡大が決議された(甲二三)ということからも、裏付けられている。

以上から、刈谷社長は、取締役会の決議に準じた形で付与された、第三者割当増資を実施するための新株発行の事前の決定を行う権限を有していて、「機関」に該当すると認められる。

したがって、弁護人が、刈谷社長が「機関」に該当するためには、当該事項の決定について取締役会決議による委任や、内部規定などが必要であるのに、そのような決議や規定の存在が立証されていないと主張する点は、右に述べたところから明らかなように理由がない。

(二) また、弁護人及び被告人は、第三者割当増資等を実質的に決定する権限は親会社にあり、刈谷社長には何らの実質的決定権限もなかったと主張し、特に新株発行については、改定基本契約書等に新株発行などの親会社の協議事項とされていることを根拠として指摘する。

確かに、弁護人らが主張するように新株発行は親会社の協議事項とされており、また、右にみたように、刈谷社長の決定は、親会社の東海染工及びユニチカの意向に反しないことを前提にしていることが認められる。しかし、新株の発行は最終的には日本織物加工の取締役会で決定する事項であって、右の諸点から直ちに、刈谷社長の「機関」性が否定されるものではない上、刈谷社長は、〈1〉東海染工に対して、本件第三者割当増資のきっかけとなる増資の依頼をし(甲二三、三〇)、第一次M&A交渉において、今野副社長らが提携先としてユニマットを東海染工に初めて提案した場に同席して、ユニマットを相手方とするM&A交渉を進めることについて異存がない旨を述べ(甲二三、三〇等)、日本織物加工を代表して本件秘密保持契約を締結したほか、東海染工の経営会議でユニマットから提示された本件スキーム案に対し、異議がない旨日本織物加工の社長として意見を述べていること(甲二三、三〇)、〈2〉第一次M&A交渉が白紙撤回されたことを伝えてくれた湯浅取締役に今後もM&Aの相手先を見つけるよう依頼し(甲二三、三〇)、平成六年一二月二〇日ころ、同取締役から、ユニマットが前回と同じスキームであれば交渉を再開してもよいと言っている旨のレコフの話を聞いて、交渉再開に同意し(甲二三、三〇)、その後も、平成七年一月二五日の前記八代会長とユニマットの高橋社長とのトップ会談の開催及びその成功といったことについて報告を受けていたことなどが認められる。そうすると、刈谷社長は、第一次M&A交渉に引き続き、第二次M&A交渉においても、節目節目で、東海染工側から交渉の進展状況も知らされ、親会社の意向を尊重しながらも日本織物加工の経営者としての立場からの意見も述べていたものであって、親会社によって決められたことだけに盲目的に従い、実質的な決定権限など全くない形式的な役員でなかったことは明らかであるから、弁護人の前記主張は失当である。

3  「新株の発行を行うことについての決定」の有無等について

(一) 刈谷社長の検察官調書(甲二三)によれば、同人は、〈1〉平成六年一二月二〇日ころ、湯浅取締役から、ユニマットが本件スキーム案であれば、M&A交渉を再開してもよいと言っている旨を聞き、右スキーム案の内容によるユニマットとのM&A交渉の再開に異存がなかったため、その旨を湯浅取締役に伝えたこと、〈2〉その際、日本織物加工の代表取締役として、親会社である東海染工及びユニチカとユニマットとの間で本件スキーム案を基本とした内容のM&Aの話が決まれば、日本織物加工において、その内容に沿った第三者割当増資をする考えでいたこと、〈3〉平成七年一月一一日に、湯浅取締役から、ユニチカは東海染工主導でM&A交渉を進めてかまわない旨述べていてその感触がよく、同月二五日には八代会長とユニマットの高橋社長が会談することになったことが伝えられた際、東海染工及びユニチカとユニマットとの間で、本件スキーム案の内容に基本的に沿った形でM&Aを行うという話がまとまりさえすれば、第三者割当増資を行うという決断を日本織物加工の代表取締役としてしていたので、トップ会談が終わりさえすれば、第三者割当増資をすることができると思い、事務手続的部分も含めて最後までうまくまとまるように取りはからってくれるようお願いするという意味を込めて、湯浅取締役に対し「今回は是非実現したいので、よろしくお願いします」と答えたことが述べられている。この供述は、第二次M&A交渉過程における日本織物加工の代表取締役としての認識を率直に述べたものとして十分信用できる。

したがって、遅くとも平成七年一月一一日には、刈谷社長は、本件M&Aにユニチカも協力することをユニチカの交渉窓口となっていた小栗荘一常務取締役から湯浅取締役を介して伝えられ、八代会長と高橋社長とのトップ会談の実施予定も組まれたことなどから、ユニチカの合意が得られる見通しを強め、他にM&A成立の障害事由がないところから、ユニチカの合意が得られれば、本件スキーム案に沿った形での第三者割当増資を行うことを決断し、同日、電話で、湯浅取締役に対してその旨を伝えたものと認めることができる。

以上によれば、刈谷社長は、遅くとも平成七年一月一一日には、ユニチカが難色を示す保有株のユニマットへの直接譲渡に決着がついて障害事由がなくなれば本件第三者割当増資を実施するための新株発行を行うことを、湯浅取締役に表明する形で決定していた(以下「本件決定」という。)と認められる。

これに対し、弁護人は、刈谷社長は、第三者割当増資についての東海染工の決定に全面的に任せる、あるいは従うという意思を有していたに過ぎず、刈谷社長は「決定」を行っていないと主張する。なるほど、刈谷社長の捜査段階の供述中に、前記のとおり湯浅取締役に対し「よろしくお願いします」と言ったことに関し、第三者割当増資については、東海染工に全面的に委任をし、東海染工及びユニチカとユニマット間のM&Aの話の成立に委ねていた旨の説明をしている部分がある(甲二三号証六二八丁)。しかし、同時に、日本織物加工においては第三者割当増資を行うという決断をしていて、話が事務手続的部分も含めて最後までうまくまとまるように取りはからってくれるようお願いする意味を込めていたと説明している(同号証六二六丁)から、刈谷社長が同年一月一一日の時点で、東海染工に全面的に委任したとの前記説明の趣旨も、全くの白紙委任の趣旨ではなく、あくまで本件スキーム案に基本的に沿うことが前提とされているのは明白である。そして、先に見たように、刈谷社長は、節目節目で本件M&A交渉の経緯を知らされたり、日本織物加工の経営者としての意見を求められたりしていたと認められ、前記のとおり刈谷社長は本件決定をしたのであって、弁護人の右主張は失当である。

(二) 本件決定は、前記ユニチカの合意が得られることという不確定な要素を含んではいるが、右合意が得られた時点で、前記新株発行を行うこととしているのであって、新株の発行時期こそ未確定ではあるものの内容的には本件スキーム案を前提としたかなり具体的なものであることから、右障害事由がなくなったときに投資者の投資判断に影響を及ぼす事実に該当すると解される。したがって、本件決定は「決定」に該当する。もっとも、規制対象として合理性がある「決定」といえるためには、本件決定中にある障害事由がなくなっていることも必要であるから、そのこと自体は「重要事実」に含まれるが、弁護人が主張するように、その決定をした刈谷社長自身が右の点の認識を得ることまでは要しないと解される。そして、前記のとおり、ユニチカは、平成七年二月八日に、保有株をユニマットに直接譲渡することに合意したことで、右障害事由がなくなったのである。

なお、刈谷社長の本件決定時の発行予定新株数一一六一万株が、前記のとおり、その後の交渉で一九万株増やされて一一八〇万株とされている。しかし、このことは、もとより本件決定の同一性を害するものではなく、被告人の刑事責任にも何ら影響を及ぼさない。

三  被告人の「機関」及び「重要事実」に関する認識

1  検察官は、被告人は、被告人の事務所において、レコフの今野副社長から、刈谷社長の本件決定を平成七年一月一三日に、前記のとおりユニチカが保有株をユニマットに直接譲渡することに合意したことを同年二月九日に、いずれも口頭で伝えられたとし、そのことにより被告人は、これらの事実を本件秘密保持契約の「履行に関し知った」と主張するのに対し、弁護人は、被告人には刈谷社長が日本織物加工の「機関」であるとの認識はない、刈谷社長の本件決定の伝達がなく、被告人は刈谷社長の本件決定を知らなかったなどと主張している。

そこで検討すると、今野副社長の検察官調書(甲一八)によれば、〈1〉平成九年一月一三日に、同人が被告人の事務所を訪問して、ユニチカ側の条件を伝えた際、「日本織物加工はもちろんですが、ユニチカも第三者割当には同意していますので、今後のスケジュールを組みたいのですが」などと被告人に伝えたこと、〈2〉同年二月九日に今野副社長が被告人に、ユニチカが前記の株の直接取引に応じた旨を伝えたことは認められるが、他に、刈谷社長が本件決定をしたという事実そのものを被告人が知ったという証拠はない。

しかし、被告人は、捜査段階の供述調書で、前記一月一三日の今野副社長の話を聞いて、刈谷社長は、東海染工の側からこの買収交渉の話を聞き、本件スキーム案中の日本織物加工の第三者割当増資の件を知っていて、ユニチカがこの買収話を承諾するということを条件に右第三者割当増資を行うという本件決定をしていることが分かった旨、前記二月九日に今野副社長からユニチカが前記の株の直接取引に応じることになったことを聞いて、刈谷社長は、既に、ユニチカが買収に応ずることを条件に第三者割当増資を行うことを決定しており、本件買収交渉を親会社の東海染工やユニチカに全面的に委ねているものと思っていたので、ユニチカが本件買収に応ずることになった時点で、日本織物加工は、第三者割当増資を行うことを実質的に正式に決定したものと認識した旨供述し(乙三)、被告人が本件M&A交渉の過程で刈谷社長の本件決定を認識するに至ったことを認める趣旨の供述をしている。

M&Aの専門家であって、本件M&A交渉の当初からユニマット側の代理人として全面的に交渉を委任されていた被告人は、〈1〉日本織物加工が東海染工、ユニチカの子会社で、刈谷社長が新株発行を決定するには、両親会社の了解が不可欠であること、〈2〉本件M&A交渉の中で、刈谷社長が、少なくとも第一次M&A交渉に関与していて、ユニマットを相手方とする本件M&Aに反対しておらず、また、東海染工は第一次、第二次M&A交渉を通じて、本件スキーム案に沿った第三者割当増資に基本的に同意していたこと、〈3〉ユニチカが、ユニマットとの直接取引に応じないことが本件M&A交渉成立の主な障害事由となっていたことをそれぞれ知っていたから、これらの既存の知識に、平成七年一月一三日に今野副社長から聞いた内容を併せることにより、刈谷社長が、ユニチカの合意が得られれば、本件第三者割当増資を実施するために新株発行を行う旨の本件決定をしたと了解することは極めて容易であったと推認される。したがって、右推認と相応する被告人の前記供述の信用性は優に肯認できる。

また、被告人は、公判で、第二次M&A交渉は、レコフを交えた東海染工、ユニチカ、ユニマットの三者間の交渉であって、刈谷社長を含む日本織物加工には内密にされていたと思っていたと供述し、弁護人もその旨主張する。

しかし、前記のとおり、第三者割当増資のための新株発行は最終的には日本織物加工の取締役会で決定する事柄であって、少なくとも第一次M&A交渉に関与していたことを被告人自身認識していたと認めている刈谷社長を第二次M&A交渉で除外しなければならない事情は全く窺われず、被告人の供述自体無理な事態を想定したものとみられるだけでなく、現に第二次M&A交渉における一方当事者たる東海染工からの刈谷社長への交渉状況の伝達ぶりからみても、東海染工に、第二次M&A交渉は刈谷社長に内密にしなければならないものとの認識が全くなかったことは明らかである。しかも、本件M&A実施後も刈谷社長が日本織物加工の社長を継続することがユニマット側の条件にもなっていたこと、本件M&A交渉では証券取引所への対応が重要であり、実際にも刈谷社長が証券取引所等に対して本件M&Aについて事前の説明を行っていることが認められるから、被告人の前記公判供述中刈谷社長に関する部分は到底信用できず、これを根拠とする弁護人の主張は採用できない。

以上によれば、被告人は、刈谷社長が右の旨の決定をしたことを遅くとも平成七年一月一三日に知り、さらに同年二月九日に、ユニチカの合意を知ったことで同決定中の障害事由がなくなったことも知ったから、上場会社である日本織物加工の業務執行決定機関である刈谷社長の本件決定についての認識に欠けるところはなく、「重要事実」を知ったものと認めることができる。

2  そして、被告人は、右「重要事実」を本件M&A交渉の過程で知ったが、本件秘密保持契約の履行に関して知ったといえるかについては、同契約の秘密保持の対象に「交渉の事実」も含まれるか否かによるところ、後述するように、右は積極に解されるから、被告人は右重要事実を本件秘密保持契約の履行に関して知ったものと認めることができ、これに反する弁護人の主張はいすれも理由がない。

四  本件秘密保持契約の有効性、内容等

1  本件秘密保持契約の有効性と被告人の認識

(一) 第一次M&A交渉に際して平成六年三月一五日付けで、東海染工、日本織物加工、ユニマットを契約当事者として、本件秘密保持契約が締結されたことは、関係証拠によりこれを認めることができ、争いもない。

そして、弁護人及び被告人は、本件秘密保持契約は、第一次M&A交渉にのみ適用があり、第二次M&A交渉には適用されないから、被告人の本件株取引当時、ユニマットと日本織物加工間には何らの契約も締結されていなかったと主張する。

しかし、一旦失敗に終わったM&A交渉を同じ関係者で再開する場合、秘密保持契約も再度締結し直すこともあり得ようが、当初の同契約の内容が新たな交渉にも適用され得るものであれば、同契約が適用されることを前提に、再開されるM&A交渉を行うこともあり得ることであって、そのことに少しも不合理な点はないといえるところ、関係証拠によれば、本件秘密保持契約の前文には「東海染工と日本織物加工とユニマットは、日本織物加工とユニマットとの資本を含む業務提携又はその他これに類する契約の締結の可能性を検討するに際し、東海染工、日本織物加工、ユニマットが相手方から受け取る情報の秘密保持について下記のとおり契約を締結する」旨が、第四条には「本契約の有効機関は、本契約締結の日より三年間とする」とそれぞれ規定されていて、右有効期間の三年以内に行われた第二次M&A交渉に本件秘密保持契約が適用されることに支障のない内容である。しかも、契約当事者会社の関係者である高橋社長、刈谷社長、湯浅取締役、契約書を作成したレコフの今野副社長、池井良彰次長は、いずれも、第二次M&A交渉は、終了していた第一次M&A交渉の再開であって、その再開時期も本件秘密保持契約の有効期間の三年以内であったことから、同契約が第二次M&A交渉にも適用されるものと一致して認識しており、加えて、M&A交渉には、関係当事者間で必ず秘密保持契約を締結する必要があるとの認識を有していながら、第二次M&A交渉に関しては新たな秘密保持契約を締結しなかったことを認めている(甲一、四、二一から二三まで、三〇)。

以上によれば、本件秘密保持契約は第二次M&A交渉にも適用されるものであったことを優に認めることができる。

もっとも、弁護人は、右高橋社長らの供述について、法律の専門家でないために、検察官の誘導に従った解釈を述べたに過ぎないから信用できないこと、ユニマットとレコフ(平成六年五月二三日付け)、東海染工とレコフとの各依頼書の存在とその文言を根拠として、本件秘密保持契約が第二次M&A交渉には適用されないなどと主張する。しかし、高橋社長らは、企業の経営者やM&A専門の仲介業者である上、各供述内容も、第二次M&A交渉に本件秘密保持契約が適用されるか否かについての当時の認識を供述したものといえ、また、前記各依頼書も、本件秘密保持契約とはその趣旨、目的を異にするものであるから、弁護人の前記主張はその前提において失当であり、その他の弁護人の主張を考慮しても、前記認定は左右されない。

(二) そして、被告人は、検察官調書(乙三、四、一五)において、被告人の本件株取引当時、本件秘密保持契約が有効であったことを認識していた旨明確に供述している。被告人は、本件秘密保持契約書を高橋社長から見せられて、その内容を認識していた上、M&Aの専門家であって、本件M&A交渉におけるユニマット側の代理人として、秘密保持契約の存在の重要性を十分認識していたと推認できること、高橋社長を含め前記各関係当事者は当時いずれも本件秘密保持契約が第二次M&A交渉に適用があると認識していたことなどからすれば、被告人の前記検察官調書は十分信用できるというべきである。

そうすると、被告人が右のとおりの認識を有していたと認められるから、これに反する弁護人及び被告人の主張はいずれも採用できない。

2  本件秘密保持契約が対象としている情報の種類

弁護人及び被告人は、本件秘密保持契約が秘密保持義務を課しているのは、「相手方から受け取った情報」であり、これにはM&A交渉を行っていること自体は含まれないから、被告人が右交渉の事実を知ったとしても、本件秘密保持契約に関して知ったことにはならない旨主張し、その根拠として、前記レコフへの各依頼書の秘密保持義務条項では相手方から受け取る情報とは別に「交渉の事実」を秘密保持すべき情報として記載されていることを挙げる。

しかし、同依頼書はM&A交渉の直前の当事者間で締結される秘密保持契約とは、その前提を異にしているから、この点の弁護人の主張は失当である。しかも、M&A交渉の際に秘密保持契約を締結する趣旨は、一般には、相手企業の内部情報等を調査して得た秘密を保持することの他、M&A交渉を行っていること自体が従業員の動揺や取引先、銀行への信用低下を招くといった危険があるためその秘密も保持することにあると解され、本件でも、高橋社長(甲一)、今野副社長(甲一八、二一)、湯浅取締役(甲三〇)がいずれも同旨の供述をしている。このような趣旨からすれば、M&A交渉を行っていること自体も当然本件秘密保持契約において秘密保持すべき情報に含まれるものと解すべきであって、同契約中の「相手方から受け取る情報」から右交渉の事実を排除すべき事情も窺われない。

したがって、弁護人らの前記主張は理由がない。

五  被告人の検察官調書について

弁護人は、第一回公判期日に、検察官請求の全ての証拠に同意し、その後も右意見自体は変更していないが、被告人の平成八年八月一二日付け検察官調書(乙三)について、被告人が署名指印した後に、検察官により挿入された部分が五か所ある旨主張し、このような挿入が可能であった根拠として、同調書は、ワープロ打ちのもので、被告人の署名時にはページの記載、契印がなく、編てつもされていない状態であったことを指摘し、被告人も公判で同旨の供述をする。

しかし、被告人の言によれば、同調書は、被告人が検察官に対し、その主張事実を認める代わりに早期の保釈等が認められるように取引を申し出た結果作成されたものであるのに、検察官がそのような調書にわざわざ改ざんを加えたというのであるから、被告人の供述自体不合理である上、同調書には、その形状等に関する弁護人の主張を前提としても、そのような改ざんの形跡が全く窺われないこと、当時弁護士資格を有し、法律に明るい被告人の供述調書を改ざんすると、発覚のおそれが高いが、弁護人が改ざん挿入されたと主張する部分には、例えばユニマットと日本織物加工との間の覚書に関する供述のように、検察官が主張する本件犯罪の構成から外れていて、右のような改ざんの危険を冒してまで挿入する必要性が認められない部分があることなどを考慮すると、被告人の前記公判供述は、到底信用することはできず、これを根拠とする弁護人の前記主張は採用できない。

六  結論

以上から、被告人は、犯罪事実記載のとおりの犯行を行ったものと認められ、その余の弁護人及び被告人の主張を考慮しても、右の結論は左右されない。

(法令の適用)

被告人の行為は、包括して証券取引法二〇〇条六号、 一六六条一項四号、 二項一号に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役六か月に処し、情状により平成七年法律第九一号附則二条一項本文により同法による改正前の刑法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。犯罪事実記載の犯行により被告人が取得した日本織物加工株中、合計七万三〇〇〇株(買取時の価格一一七九万七〇〇〇円)は同法一九条一項三号に、その余の合計四万株の対価として得た一四四一万九二九五円の現金は同法一九条一項四号にそれぞれ該当するが、いずれも没収することができないので、同法一九条の二を適用してその価格の合計である金二六二一万六二九五円を被告人から追徴する。

(量刑事情)

一  本件は、いわゆる渉外弁護士の中核的な存在としてだけでなく、企業合弁・買収に関する専門的な弁護士としても著名であった被告人が、自らも監査役となっている買収側会社の代理人として、本件秘密保持契約を前提に関与し、買収の枠組みの設定等重要な役割を果たしていた企業買収交渉において、右契約の履行に関し知り得た第三者割当増資の知識を悪用して行ったいわゆるインサイダー取引の事案である。

被告人は、法律を遵守するのはもとより依頼者の秘密を保持し、弁護士倫理を守って社会正義を実現すべき立場にありながら、暴利を貪り多額の金銭を得ようとの利欲的動機から周囲の信頼に背いて本件を犯したのであって、犯行の動機に酌むべき点は全くない。

本件では、結果的にM&Aに関する秘密の漏洩に至らなかったが、被告人が取引に利用した証券会社の方では、その取引を不自然なものと注目していて、被告人自身も取引担当者が騰貴を予想した日本織物加工株の販売行動に出ないようにする必要を感じて、株式購入の嘘の動機を伝えるといったその回避策を講じたりもしているから、被告人の行動は、株価の上昇等で一旦終了した後に再開された買収交渉を再び危殆に瀕しさせかねないものであったといえるのであって、弁護士としての立場を著しく逸脱した、当事者の代理人としての著しい背信行為といえ、強い非難に値する。

犯行態様も、得た知識を利用して財産の減少を回避するといった消極的なものではなく、企業買収の正式合意の成立が確実となって、株価の高騰が間近に予想される時期に、短期間に多額の資金を投じて一一万株を越える多数の株式を買うという積極的な態様での利益追求をはかったものであって、それ自体悪質なものである。株式取得数について、被告人は当初から右のような多数の株式を取得するつもりはなかった旨捜査段階から弁解しているが、本件が前記の程度にとどまったのは証券会社の被告人の取引担当者が病気入院したという偶然的な要素によるところが大きいのであって、被告人は、多数の株式を取得した後も株式購入をやめようとはしておらず、知人にまでまとまった数の株式を取得させているから、被告人の前記弁解は斟酌に値しない。被告人は、取得した株式の一部を高値で売却して多額の利得を得、未売却株式でも多額の含み益を得ている。

被告人は、犯行が発覚しそうになると、弁護士としての知識、経験を悪用して、取引先の証券会社、知人等の関係者を巻き込んで、口裏合わせ、虚偽の経理操作、書類の改ざん等周到で巧妙な罪証隠滅工作を行っている。被告人は、当時所属していた弁護士事務所のためを思って右行動に出た旨弁解するが、右罪証隠滅工作が主として被告人の保身を意図して行われたことは明らかであって、犯行後の行状もはなはだ悪い。

証券市場の公正性と健全性を損ない、一般投資家の証券市場に対する信頼を失わせるものとして、いわゆるインサイダー取引に対して社会の強い非難が寄せられている時期に、前記のように弁護士として枢要な立場にあった被告人が本件を犯したことは、法曹界、殊に弁護士会に大きな悪影響を及ぼしただけでなく、社会にも強い衝撃を与えた。

したがって、被告人の刑事責任は重い。

二  他方、被告人は、これまで、道路交通法違反の罰金前科二犯以外には前科がないことはもちろん、昭和四四年に弁護士登録をして以降所属していた弁護士事務所はもとより弁護士会等で多大な成果を上げ、社会にも貢献してきていたが、本件を契機に自ら退会届を出して弁護士登録を抹消され、マスコミにも大きく報道され、自らの職業、社会的地位、名声を一挙に失っている。

三  以上の他、被告人の家族関係、年齢、被告人が高額の追徴を受けること、この種事犯のこれまでの処罰例等を考慮しても、本件は罰金刑に処すべき事案ではなく、被告人に主文の刑を科した上、刑の執行を猶予するのが相当である。

(裁判長裁判官 植村立郎 裁判官 入江猛 裁判官 馬渡香津子)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例